このところ議論を呼んでいるものにLGBTがあります。
非常に政治的な文脈で語られることも多いですが、それは別の方におまかせするとして ここで語りたいのはいよいよ入れ替わり作品にも影響が及んできたという話です。
先に予防線として言っておきたいのですが実際にLGBTで悩みを抱えている方を貶める意図は一切ありません。
これまでの入れ替わり作品で描かれてきた男女のギャップの面白さ
エンタメ作品において男性と女性が入れ替わった場合、描かれる典型的なものとして女性の見た目なのに男性のような言動をしたり、また逆に男性の見た目なのに女性のような言動をする描写があります。 より具体的には女の子が一人称が「俺」だったり足を広げて座ったりすることに何も恥じらいを覚えなかったり、男の子が女言葉を使ったりナヨナヨする動き方だったりですね。
『男子ingガール!』より
こういった描写におかしさや面白さを感じるのは男性であれば(また女性であれば)取るであろう言動が広く認識され、多くの人が自身の体験として実感出来ているからです。
ここで「普通」という言葉を使うと文句を言われそうなので敢えて「ステレオタイプ」という言葉を使いますが、この男性のステレオタイプ・女性のステレオタイプが確立されているからそこから外れてしまったことが面白いと言えるわけです。
しかし最近のLGBT機運の高まりからこのステレオタイプというものが“社会的には”見直される流れが来ています。自分の中ではあくまでそれは現実社会の問題でありフィクションとは関係ないと思ってました。またフィクションに関係があってもLGBTに敏感すぎるアメリカの話でしょ? くらいの感覚でした。しかし日本でも影響を受けた作品が誕生してきているのです。
LGBT影響を感じる作品
具体的に作品を紹介します。ついてはオチまでしっかりネタバレがありますのでそこは注意してください。
『逆のボタンはかけづらい』(著者:路田行)
あらすじ
大雑把な性格のヒロイチと仕事好きだったが今は専業主婦をしているアカリは夫婦だがお互いの考えが合わず喧嘩気味。そんな2人はある日入れ替わってしまう。するとお互い相手として過ごす生活が意外なほどに合っていることに気が付いた。そしてはそれは男とか女とか関係なくお互いにらしく生きることなのだと。翌日元に戻る2人。その後、アカリは働きに出てヒロイチは専業主夫として生きていくのだった。
読んだ時は「男性は社会に出て働く・女性は専業主婦で家を守る」という価値観は自分にとっても古い価値観と思えましたし、掲載誌がモーニング系だっていうこともあって社会派なテーマではあるんです。わかりやすい古い価値観の「性役割」という意味でのジェンダーに抗う形。こういう話もありかなと思ったんですが既存の作品とはやはり違う感覚ありますね。
これまでの入れ替わりものであれば、「入れ替わったことで相手の立場が理解出来たので元に戻ってもパートナーの気持ちを背負って心機一転頑張ろう」みたいな展開が王道で、攻めた作品なら「入れ替わりなんて大変だと思ったけど入れ替わった状態こそが自分たちのベストみたいだ」と気付いて入れ替わりを受け入れて終わるみたいなこともあるでしょうか。
ドラマ
『神様のえこひいき』(公式サイト)
あらすじ
高校生男子の天野弥白は親友・七原ケンタのことが好きで告白したが断られ傷心の中、交通事故に遭い神社の神様のえこひいきで女の子として生まれ変わることに。実はそれは生まれ変わったわけではなく天堂神楽という女の子と入れ替わったという形だった。弥白の当初の考えとしては自分が男でありケンタと同性であることが恋愛の障害になっているから女の子になりたかったわけだが、同性だとか異性だとかいう立場は好きという気持ちに関係ないのでは?という考えに至る。紆余曲折あって元に戻った弥白は男のまま改めてケンタに告白し付き合うことになった。
原作では神楽はオリジナルな存在だったけどドラマ版では入れ替わりの形を採用してます。原作からして同性愛がそもそもの出発点としてあるわけなんですが、このテーマを真面目に掘り下げていったら男性同士の恋愛に発展するというのがこのドラマなわけです。普段からBLとかを嗜まれる方にしてみれば全然ありなんでしょうが、一応一般向けとして作られたドラマでこの展開は結構驚きではありました。
これまでも好きになった人が同じ性別であることが壁になるなら自分が異性になればいいのだ、という考えで入れ替わりを企てた作品というのはあって『菜々ちゃんは俺のもの』がそういう作品でした。考え方の基準が違うことがわかります。最初こそ「恋愛は男女でするもの」と弥白自身も考えていたけど、その基準を破壊していく作品になっていました。
『王子は姫になりたがる』(著者:柚原瑞香)
あらすじ
高校生男子・王寺(おうじ)はかわいいものが大好き。だから同じクラスの美少女の女子・姫島がガサツで男らしい性格なのがもったいないと思っていた。いっそ姫島になりたいと思っていた矢先、2人は頭をぶつけたショックで入れ替わってしまう。入れ替わった状態の方がしっくり来てしまった2人はそのまま過ごすことに。2人ともがお互いになりたかったのは確かだが姫島の友人や周囲の人たちから「今の(入れ替わった)状態の方がいい」と言われるにつれ、今の入れ替わりを受け入れるのではなく自分のまま自分の好きなように生きることが大事なんじゃないかと気付く。そして元に戻った2人は自分の気持ちに素直に生きるようになった。
入れ替わった方がしっくりきちゃった系の作品というのも『僕と彼女の×××』とか色々ありますが、それらはまだ作品の作り方の根底にコメディのベースがあったように思います。「女の子の方がいいって言われるけどそれは男としてのプライドがー」みたいなヤツですね。生き方の相性が入れ替わってた時の方ががいいってだけでそこに性別に関するガチの悩みまではいってなかった。
この作品だと主人公2人がそもそもトランスジェンダー気味に描かれてます。元に戻ってジェンダーに囚われずに自分らしくいこうという展開に至る作品というのはほとんどなかった。上記2つの作品は少しマイナー気味な(広く浅い層には届かない)メディアでしたが、本作は純粋な少女漫画誌で描かれたこと、つまり一般的なエンタメとして世に出されてることが結構ショックを受けましたね。
まとめ
上記3作品はここ5年以内に発表された作品になります。
入れ替わりものに関して言えば(男女の場合の)性別変更だけじゃない魅力があるのですが、こと性別変更要素に限って言えばステレオタイプから外れたことがおかしいと思われなくなっていくのではないか、という懸念があります。
例えば、洋画『ザ・スイッチ』では女子高生の主人公と殺人鬼の男性が入れ替わります。色々あって殺人鬼の男性の体のヒロインとヒロインが好きな男の子がキスをするというシーンがありますが、これまでの価値観だとギャグなんですよここ。男の子にしてみれば「外見男同士のキスなんて冗談じゃない!ましてやおっさんとなんて!」っていう。でも今のLGBT的考えだと「そこはなにもおかしくないでしょ?」ってなる。
これは持論なのですが、男性・女性のステレオタイプというのは別に「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という押し付けで出来たものとは思いません。子育てをされている方の話を聞いても子供に特に押し付けたわけでもないのに男の子は乗り物や怪獣などのおもちゃを好むし、女の子は人形などを好むことが多いとか。ステレオタイプは自然に形成されたものでその価値観に準ずることは自然なことだと思っています。(それをベースにマイノリティを否定していいって意味じゃないですよ念の為)
自分はステレオタイプ価値観のベースがあるから男女入れ替わりは面白いし興奮出来るのは間違いないんです。でも社会の方が変わりつつあって実際ステレオタイプに縛られるな!という作品が提供されつつある。自分の中の価値観は変わらないけど提供される作品の方が変わっていってる。なんとも言えないモヤモヤ感になっているという状況なのです。
ただ、確かに新しい作品を読むと若い風を感じてハッとさせられることも多いですし、逆に古い作品を読んでギャップに違和感を持ったり驚くこともありますが…「実際にはとうてい有り得ないだろう空想の性別変化によって、実際には現実のどこかでも起きている本人や周辺から見た身体・精神・性別・志向の食い違い≠映しつつ、相互理解とそれぞれの選択や生きざまを自由に描く」という構造自体は、ほとんど同じなのです。
様々な好みが枝分かれしていますから感じ方は人それぞれでしょうが、この根幹がTSF・入れ替わり作品特有のものであり、時代や社会や作り手や受け手が変わっても変わらない部分であり、今後もそうなのではないでしょうか。
そして、時代によって受け止め方が異なっても、当時と現在、社会と個人それぞれで照らし合わせ線引きしながら、身体・精神・性別の関係の創作を楽しむことはできると考えます。
そうして読み継がれてきた作品も多くあります。『おれがあいつであいつがおれで』→『転校生』→『どっちがどっち』へを始めとした王道男女入れ替わり作品の変遷もそうですし、ジャンルは変わりますが、平安時代の古典『とりかへばや物語』、漫画の神様手塚治虫の『リボンの騎士』なども同様です。ほかの名作を思い返してみても、入れ替わりもTSFも女装男装も、皆それぞれの形での「変わるもの・変わらないもの」を描いてきたのですから。
当然、現実の人権・倫理的に考えれば、少なくとも一般誌系漫画やテレビ映像作品などの大衆向け作品では、限りなく現代社会の世界観で、周辺キャラクターや社会が個人のパーソナリティ・アイデンティティの否定(※自発的な変化とは別)を強要したり主人公側がジェンダー差別的な言動をしたりする描写、もしくはそれを風刺でなく肯定するような表現は、確実に減っていくでしょう。(※例えば、入れ替わった自分の身体が異性的な言動する様を見たときに、「オカマやホモみたいで気持ち悪い」「女らしくお淑やかに」「男らしく勇ましく」といったラベリングして否定するセリフではなく、「自分なのに自分じゃない」「○○ちゃんそのものに成りきって」というようなパーソナリティに着目する表現がスタンダードになる、ということです。正直なところ、甘い物を好む男性も格闘技好きな女性も同性で付き合う知人ももはや居るのが当たり前の日常なので、現時点で新作なのに前者の方向性だったら、自分も失望します。)
しかし忘れてはならないのは、他人を巻き込んだり否定する行為が問題になっているだけで、従来の典型的な男らしい・女らしいと言われるようなタイプの方も自分らしく生きているだけなら何も咎められる必要はないことです。そしてLGBTだけでなく、社会・家庭面における男女平等についても、未だ基本的な部分で改善が議論されている最中です。
つまり、一方的な視点だけでなく他者の立場になって相互理解する≠ニいう入れ替わり作品はむしろこれからの時代にこそ合っていると思います。自由に選択し生きる入れ替わり作品も、王道の入れ替わり作品も、今後も新たに生まれていくはずです。
そうして変わるものがあり変わらないものがあり…様々な選択の幅がさらに広がっていくことこそ、むしろこのジャンルらしさなのではないか?と自分は思っています。かつて男女間の入れ替わりとその後戻ってくっつくラブコメを好んできた自分が、入れ替わったままの選択をする作品やTSFなどまでも楽しめるようになったのも、そうした背景があるからなので。
そう、振り返ってみれば受け手の自分の今感じていることも過去とは実は変わっていることが多くあります。今後も何かしらは色々変わるでしょうけど、結局のところ自分や他の受け手の方も実は変化はしていて、それでも入れ替わり作品を楽しむ気持ち自体は変わらないのだと思います。